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  • メトロポリタン美術館前景 中央にOribe展のバナーが掛かる。
  • Oribe展展示会場

2020.10.26(mon)

思い出の展覧会(65)
Turning Point; Oribe and the Arts of Sixteenth-Century Japan
2003年10月21日(火)~2004年1月11日(日)
メトロポリタン美術館

岐阜県美術館 副館長 正村美里

 忘れ難いといえば、岐阜県美術館との共催によりメトロポリタン美術館(以下MMA)のTheSacklerWingGallery(日本ギャラリー)で開催した本展(和訳「織部―日本美術の転換期」)だろうか。

 桃山から江戸初期に活躍した武将で茶人である古田織部と、その名を冠した織部焼の「オリベ」をキーワードに、左右非対称や歪み、不完全さに美を見出すわが国特有の美意識を、岐阜県では「オリベイズム」と名付け、地場産業の開発と関連商品の海外への販路拡大を目指した。岐阜県美術館は、1997年に館内で行った「織部展」を米国に巡回するべく5年掛かりで交渉し、MMAでの開催にこぎつけた。MMA側は日本美術のキュレーター村瀬美惠子教授と渡辺雅子氏が、日本側は東京藝術大学大学美術館館長(当時)の竹内順一教授を監修者に、当館の古川秀昭館長(当時)と筆者が携わった。

 展覧会入口は内田繁氏のデザインにより、長い導入部の両脇に竹を立て、正面に《古伊賀水指銘破袋》(重要文化財・五島美術館蔵)を配置し、美の象徴とした。第1部は、茶の湯文化を表す利休の茶杓や黒楽茶碗、欧州文化の流入と世界観の拡大を示す世界地図屏風。第2部は織部以前の美濃焼の志野や瀬戸黒茶碗、そして生産地美濃と、消費地畿内で発掘された陶片合わせて400片を展示した。第3部は「織部の時代」として古田織部の紹介、京人の生活文化を示す洛中洛外図屏風、さらに、茶碗から向付や燭台にいたる多様な織部焼と高台寺蒔絵、辻が花、風俗図など。第4部は織部のその後として、江戸後期に瀬戸で焼かれた復興織部を紹介した。総点数175点、3分の1は米国内から集められた。国内作品全ての交渉と集荷、原稿のとりまとめとMMAでの開梱展示を行い、中間の展示替え時には重要文化財2点をもって渡米した。

 会期中の竹内氏、熊倉功氏、伊藤嘉章氏、長崎巌氏、奥平俊六氏らを迎えてのシンポジウムや、MMA所蔵の大量の茶入を前に、竹内氏、伊藤氏、林順一氏による産地を探るワークショップなど、国内ではとても叶わない貴重な催しだった。デンドール寺院での大々的なオープニングセレモニーや、ジャパンソサエティーでの織部記念茶会、また、グランドセントラル駅での岐阜県関連商品の見本市など、県の産業振興があってこその盛り沢山の事業だった。

 準備のために何度か渡米し、毎日終日MMAに通った。業務は完全に分業されており、キュレーターと共に、展示デザイナー、広報担当者、カタログ編集部、ショップのグッズデザイナーなどと個別の打合せ。開梱した作品は、日本画、紙、立体、染織をそれぞれ専門の修復室に運んでのチェック。レジストラーの時間は厳守で、ハンドラー(作品の展示係)、プレクシー担当(アクリルケースの蓋を閉める業者)まで、綿密なタイムスケジュールで動き、広いMMA全館を行き来する彼らをいっ時も待たせることはできなかった。米国滞在中は夜中に展示プランを練り直し、図録の校正は日本からニューヨークとやり取りし、1か月ほど朝帰りが続いた。

 とはいえ、今ではそれも懐かしい。日米の美術館組織の違いはとても勉強になったし、日本の雑芸員の良さも知れた。MMAのスタッフとの交流も、スタッフランチも忘れ難い。搬出の日、早朝の雪景色の中、美術館をトラックと共に後にした際の光景は今も目に焼き付いている。

美連協ニュース148号[2020年11月号]より転載
(※役職、所属は掲載時)

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