美術館連絡協議会 美術館連絡協議会

2022.3.17(thu)

思い出の展覧会(69)
写真家/福田勝治展
―孤高のモダニスト―
1994年10月7日(金)―11月27日(日)
山口県立美術館

山口県立美術館 副館長兼学芸課長 河野 通孝

「おいちゃんは、なん、しとらっしゃると?」

「あのね、お・に・い・さんは美術館の学芸員をやってるんだよ。」

「がくげい、いん?」

「そう !美術の展覧会をつくってる人なんだよ。」

「ふーん…」

 

 いまから30年ほど前。東京発博多行の寝台特急「あさかぜ」で、偶々乗り合わせた19歳の少女との会話である。訊けば、半年前から東京で働いている恋人に会うために上京し、これから帰るところだという。とても可愛いエピソードなのだが、その美しい顔の右頬には浅いとはいえ一筋の傷が走り、時折、口元から覗く前歯は2本が欠落している。喧嘩とシンナー(!)のせいらしい。

 

 一方の私はといえば、山口県立美術館への就職が決まり、初めての職場に意気揚々と向かう真っ最中。だから、本当はまだ〈学芸員未満〉である。行きがかり上つい背伸びをして、「展覧会をつくっている」ことにしてしまったが、とはいえ、まんざら嘘というわけでもなかった。山口県出身の福田勝治(1899〜19 91)という写真家の回顧展を担当してもらうので調べておくようにという業務命令を、正式に着任する前からうけていたからである。

 

 そういうわけで、この夜、筋金入りのスケバン美少女はニセ学芸員によるにわか仕込みの「福田勝治物語」を延々聞かされる羽目になった(とはいえ、私もまた、剃刀やチェーンの取扱等、「スケバン格闘術」をみっちり仕込まれたのだが…)。

 

 さて、私にとって初めての「展覧会をつくる」仕事はここまでは順調だったような気がする。「福田勝治」という名前は一度も聞いたことはなかったのだが、様々な図書館へ通って戦前から戦後にかけての写真雑誌をあさるうちに、この当時の日本の写真界や福田の輪郭が徐々に分かってきた―戦前には「巨匠」と呼ばれた超人気写真家。戦後はいち早く、女性のポートレートやヌード写真で活動を再開し、復興していく写真界をリード。しかし、1950年代後半からは次第に忘れ去られていく。―〈未満〉の分際ながら、「この写真家を多くの人に知らしめなければ」という使命感が沸々と湧き出してもいたのである。

 

 しかし、〈未満〉が取れ、正式に〈学芸員〉として働き始めた途端、それどころではなくなった。実力不足の新米には、目の前の作業をこなすだけで精一杯だったのだ。

 

 最初に任されたのは、ご遺族から寄贈された大量の写真をデータベース化すること。アルバイトの学生の助けを借りて、毎日ひたすら写真を撮る。作品の裏側とコンタクト・プリントに仮のID番号を付し、データベースに入力。その後、榎本徹学芸課長(当時)とともに、全体を10のジャンルに分類し、写真の状態をチェックしながら作品と資料に分け、ようやく、展覧会出品候補作品として1263点を確定してデータベースが完成。

 

 次に、この1263点から、展覧会の指導・助言をお願いしていた写真史家の金子隆一氏、写真評論家の飯沢耕太郎氏、学芸課長とともに(というより私は3人の白熱する協議をただただ見つめていただけなのだが)、349点まで絞り込む。これに加えて、6つの所蔵先から65点を拝借することとし、ようやく、414点の出品作品が確定した。

 

 その後、どのようにして開幕にたどり着いたのか記憶は定かでない。ただ、思い返すに、あの夜、あたりかまわず湧き上がったあの迷惑千万な使命感と、圧倒的な物量にまみれた10カ月が、私の学芸員としての原点であるのは間違いない。

 

美連協ニュース152号[2022年3月号]より転載
(※役職、所属は掲載時)

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